丹生には500箇所以上もの無機水銀採掘跡が残っていますが、「続日本記」に 水銀や辰砂が伊勢の国から朝廷へ献上されたという記録があり、丹生の無機水銀 は1300年前から広く知られていたことがわかります。また、奈良時代に建立さ れた東大寺の大仏のメッキには、約5万両(現在の約2トン)の無機水銀が使わ れ、その大部分が伊勢の国「丹生」生産であったと伝えられています。鎌倉時代になると水銀座が設けられるほど栄えましたが、室町時代には丹生水 銀に関する史料が少なくなり、次第に衰退していったと考えられています。
※無機水銀:公害の原因とされる有機水銀と違い、殆ど無害であり、体内に入っても短期間で排出される。
水銀採掘坑跡(多気町指定文化財)
水銀製錬装置
3本の鉄管へ粉末にした辰砂と石灰を入れ、左の炉に詰めたおがくずに点火し加熱すると300度くらいで辰砂に含まれる無機水銀はガス化し始めます。このガスは垂直の鉄管へ向かう途中で冷却され液体の水銀となり、これを捕集します。
昭和30年代には、この装置で月に340kgの水銀を製錬したとの記録が残っています。
丹生暦(国立図書館蔵)
伊勢国における暦つくりの歴史は古く、中世から多気町丹生で「丹生暦」と呼ば れる暦が刊行されていました。この暦は、江戸時代にも紀州藩の認可を受けて紀 伊・伊勢国の同藩領内で販売され、紀州暦とも呼ばれていたそうです。その後、 江戸時代前期に丹生暦に類似した「伊勢暦」が伊勢で出版され、次第に伊勢神宮 の御師やその手代が、毎年定期的に将軍・大名から村々の農民までの各地各層の 旦那廻りを行う際に、神宮の御祓札に添えて届ける伊勢の土産の一つとして全国 に運ばれ配付されたことから、全国で約半数を占めるほど浸透していきました。
三井家の始祖・三井高利(1622〜1694)の母である「殊法(しゅほう)」は、三 井家「商いの祖」と伝えられています。 殊法は丹生の豪商永井家に生まれ、13歳の時に三井家に嫁ぎました。殊法の夫・ 高俊はあまり商売に熱心ではなく、もっぱら連歌や俳諧などの趣味に興じるばか りであったため、店を切り盛りし、実質的に越後屋を支えていたのが妻の殊法で した。実家、永井氏が丹生で金融業を営んでいたことから、殊法は優れた商売感 覚を持ち合わせていたようです。倹約家で身内には贅沢を禁じ、自らも華美な衣 装を着ることはなかったと言います。サービス精神に溢れ、商売に工夫を凝らし、 周囲の信用も絵ていた越後屋の運営により、後の三井家事業発展の素地がつくら れました。
車:伊勢自動車道勢和多気インターチェンジから丹生大師方面へ約5分
鉄道:JR多気駅から町営バス「元丈の館」行き、丹生大師下車
★土日祝日は町営バス運休